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アイルランド良いとこ・・・

この3月15日から24日まで(2005年)、イギリスからアイルランドへ行ってきました。うつぼ地球クラブを主宰する山崎一郎さんの企画によるもので、移動はレンタカー、宿泊はB&Bというお気軽で、気ままなものでした。

私自身は、ある店舗の仕事を終え、バタバタと確定申告済ませ、関空から飛行機に飛び乗ったという感じでした。総勢6人中、私が最年少というジジババ・ツァーでしたが、その分、山崎さんをはじめ旅慣れた人が多く、また自費参加運転手と言う居直りもあって、ずいぶん気楽に過ごさせてもらいました。

緑の国

アイルランドの風土は、寒冷、曇天、荒涼たる土地、といったものを勝手にイメージしていましたが、意外やこの季節にしては暖かく、ドゥーダンやダブリンといった街では昼間なら下着に薄手のセーター1枚という服装で歩けました。かえって関空に帰ったとき寒く感じたくらいです。

エニス近郊の牧草地 アイルランド西部の遺跡

写真は、西部のエニス近辺の様子です。たしかに、豊かな穀倉地という風情ではありませんが、レンタカーでうろうろしたアイルランド南部・西部・ダブリン近郊などはこうした緑の牧草地帯が広がっていました。どうも、昔観た古いセミドキュメント映画(Man of Aran)の影響だと思いますが、暗い空、吹荒ぶ強い風、砂と石の荒涼たる土地、といったイメージを勝手に持っていました。しかし、実際のアイルランドは国の色にもなっている鮮やかな緑の国でした。写真の右は、城跡か何かでしょうが、エニスやリムリックといった西部の街の近郊には、観光地や史跡として紹介されている所以外でも、牧草地の中などにこうしたものがたくさん見られました。そのまわりで羊が草を食んでいたりして愉快です。逆に、観光ガイドに必ず載っているバレン高原の巨人のテーブルは、実物は私の背丈ほどのチンケなものでした。写真から、明日香村の石舞台かそれ以上の巨大なものをイメージしていしたので、正直言うと拍子抜けでした。

クロンマックノイズ遺跡からみた緑の草原 クロンマックノイズ史跡から見た墓石と風景

さて、もう一枚。上の写真はアースロンという中部の街の近くのクロンマックノイズという遺跡から見た風景です。まるで、ターナーかガーティンの水彩画のような穏やかな風景が四方に広がり、こころ安らぎます。アイルランドから世界に移住した人たちが、たとえばサッカーのアイルランド代表の緑のユニホームを見て思い起こす故郷の風景は、こうしたものかもしれないと思いました。
(続きあり)

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2005年4月3日

オスカー・ワイルドとロンドンの駅

アイルランドに入る前に、ロンドンに二日滞在しました。ロンドンに行ったら、訪ねてみたい所がありました。

ダブリンで生まれ、ロンドンで名声を獲得したオスカー・ワイルドにDe Profundisという極めて印象的な作品があります。名声の絶頂期であった1895年、同性愛の相手の親との訴訟沙汰で負けて、二年間をレディング監獄に収容された時の獄中手記です。残念ながら、現在手にはいる邦訳はないようですが、ワイルドの邦訳の全集が出ているはずですので、図書館に行けば読めるかもしれません。

私は、これを前にも紹介したフレデリック・ジェフスキーの同名のピアノ曲のディスクで知りました。ジェフスキーの曲・De Profundisは、は、ワイルドのテクスト中から抜粋された文章をピアノの演奏をしながら朗読します。ディスクの作曲者自身によるノートには、テクストと前奏を伴った8の楽章で構成されたメロドラマ風のオラトリオという事になります。ジェフスキー自身のピアノと共に、やはりジェフスキーによって朗読されるワイルドのテクストは、強いリズムを伴って響いてきます。私の貧弱な聞取能力でも、何度か聞いているうちに、その語られている内容がただならないものである事がわかります。私たちが、イメージしていたワイルドの美意識とはかけ離れた臓腑から絞り出された血と汚物の混ざりあったような言葉のように思えます。

以下、曲の中で取り上げられた節からさらに抜粋したものを、拙訳とともに引用します。

レディング監獄を指して人は言う。芸術家気取りの連中の行き着く先さ。その通り、ただもっとロクでもない所に行く事になるかもしれない。生きるすべとか人生の意味についての緻密な計算に基づき、如才なく人生を送る。こうした機械のような人たちは、自分がどこに行くのかいつも知っているし、実際にそこに行く。

People point to Reading Gaol and say, 'That is where the artistic life leads a man.' Well, it might lead to worse places.The more mechanical people to whom life is a shrewd speculation depending on a careful calculation of ways and means, always know where they are going, and go there.

私たちは、悲しみの道化であり、心のイカれてしまったピエロだ。私たちは、ユーモアのセンスとやらを、いつも発揮しなくてはならない。

1985年11月13日、私はロンドンからここへ連れられてきた。午後2時から2時半の間、クラッハム・ジャンクションの中央プラットフォームに、囚人服に手錠という姿で立たされていた。晒し者として。私は、病棟から一時の暇も与えられず引きずり出された。そのときの私は、おおよそ考えうる限りの物の中で、もっともグロテスクな存在であった。人々は私を見て笑った。新たに列車が着くたびに観客が増えた。彼らには、これ以上ない余興となった。もちろん、彼らは最初私が誰であるか知らない。そのことが知らされると、されにもう一度笑った。11月の灰色の雨の中、野次馬どもの嘲りに囲まれて、半時間の間私はそこに立ち尽くしていた。

それから一年の間、毎日同じ時刻・同じ時間だけ、私はいつも泣いていた。しかし、このことは君が思うほど、悲劇的な事でもない。囚人にとって、涙は日常のごく普通の事だ。監獄の中で、涙を流さない日があったしたら、それは、それは幸せだからではなく、心が固まって反応しなくなってしまったからだ。

We are the zanies of sorrow. We are clowns whose hearts are broken. We are specially designed to appeal to the sense of humour. On November 13th, 1895, I was brought down here from London. From two o'clock till half-past two on that day I had to stand on the centre platform of Clapham Junction in convict dress, and handcuffed, for the world to look at. I had been taken out of the hospital ward without a moment's notice being given to me. Of all possible objects I was the most grotesque. When people saw me they laughed. Each train as it came up swelled the audience. Nothing could exceed their amusement. That was, of course, before they knew who I was. As soon as they had been informed they laughed still more. For half an hour I stood there in the grey November rain surrounded by a jeering mob.For a year after that was done to me I wept every day at the same hour and for the same space of time. That is not such a tragic thing as possibly it sounds to you. To those who are in prison tears are a part of every day's experience. A day in prison on which one does not weep is a day on which one's heart is hard, not a day on which one's heart is happy.

Morality does not help me. I am a born antinomian. I am one of those who are made for exceptions, not for laws. But while I see that there is nothing wrong in what one does, I see that there is something wrong in what one becomes. It is well to have learned that.


結局、私の勘違いもあって、この11月の灰色の雨の中、ワイルドが晒し者にされたクラッハム・ジャンクションには行けませんでした。こちらに戻ってから、調べてみると、ロンドン南西にある大きな駅で、That Clapham Junction is the busiest station in Britain is a well known fact. とあります。画像で見ると、たくさんの引き込み線と駅舎のないプラットフォームが並んだ貨物の集配所のような殺風景な駅です。ヒースロー空港から、ヒースロー・エクスプレスなるボッタクリ列車で到着したパディントン駅のような訪れる人それぞれに人生の節目の郷愁を呼び覚ますような、あるいは映画のカットにもなりそうな美しい駅ではないようです。

一応旅行記のつもりで書いている文章に、行ってもない所の話をしても意味がないようにも思います。ワイルドはダブリンで生まれ、ロンドンで名声を得て、その最中に投獄されました。それは当時のイギリスの上流階級の陰謀でもあったと言われています。今回、ロンドンからアイルランド西部の田舎の村、そしてダブリンを訪れ、あらためてこのワイルドとジェフスキーのDe Profundisを読み聴いて見ると、以前とは違った感慨が生まれます。頽廃、耽美主義、反骨、そうしたあくまで一般的なフレーズの中で、ワイルドを捉えてきました。たとえば、サロメのビアズリーの挿絵とワイルド自身のよく見られる肖像、長髪・小太りで、ナルシスチックなポーズをとったオタク風の絵は私の中では同じ世界のものでした。そうではなくて、いまから100年以上前の19世紀末にアイルランドに生まれ、イギリスで過ごした生きた人間としての考える。今は、うまく言葉にすることができませんが、アイルランドで体験した事を書き連ねていくうちに、最後にお伝えできたら思います。

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2005年4月17日

ダニーボーイマリーマロー

ダブリンの最終日は自由行動でした。夜は、ほかの人たちはホテルでの食事付のアイルランド音楽とダンスを観に行きました。私は、パブで聴いたアイルランド音楽というのが、いまいち面白く感じなかったのと、ホテルでの催しというのに興味が持てなかったので、一人でブレヒトの芝居を見に行きました。

これも、山崎さんが当日の催しとしてDublin Tourismで見つけてくれたものです。サミュエル・ベケットの国で、英語で上演されるブレヒト芝居というのも興味がありました。三文オペラのストーリーの設定はロンドンだし、どんな風刺の効かせ方をするのだろう?面白そうだ。

上演される場所はThe Helixという劇場ですが、新しいものらしくガイドには載っていない。また郊外にあるらしく市内中心部の地図にもない。当日券の有無も時間切れで不明。しかたないので、行き当たりばったりでタクシーを拾って行くことにする。

つかまえたタクシーの運転手は、白髪の田舎のオイチャンというよりジイさんという風情の人。The Helixという劇場を知っているかと聞くと、知らないという。住所を言うと、そこは分かるから行ってみて近くで聞いてみるとの事。夕方で、ダブリン中心部から郊外へ向かう道は渋滞して進まない。で、開き直ってジイさんと話をする。ただし、すんなりと話などできない。要するに何を言っているのかさっぱり分からない。第一には私の拙いヒアリング能力のせいだが、訛りがひどくて分からないと言うのもあると思う。思い出すと、学生時代三里塚に援農に行っていた時、地元の百姓同士の話はさっぱり分かりませんでした。同じ日本語とは思えなかったくらいです。ここでも三回くらい聞き返して、こちらからこう言っているのかと聞き直してようやく判読という感じ。で、その中身。


どこから来た?

日本だ。

日本人を乗せたのは初めてだ。

(本当か?と思うが、ここはアイルランドだから、敢えて聞かない。)

日本は、立派な車やカメラを作っている。お前もビジネスか?

いや、遊びだ。

どこかに寄ったのか。今日ダブリンに来たのか?

ロンドンからレンタカーで、フェリーで来た。今日が最終日だ。Doolinに二日居た。

ドゥーラン?

そうだ。ドゥーランだ。

・・・?

D、O、O、L、I、N、(と綴りを言うと)

ドゥーラン!

(さっきから言ってるだろう。どうやら、こちらの発音が悪いせいでなく、その田舎村を知らないか、まさか日本人がそんな所に行くのかという感じかもしれない・・・)

アイルランドはどうだ?

思ったより暖かいし、ロンドンからウェールズを通ってきたが、比べれば非常に過ごしやすく楽しい・・・(ようするに、酒はうまいしネエちゃんはキレイだという様な話をする。)

そうか。そうだろう。○◎□△▽×+−

(たいそう喜んで、ついでに ↑ なにかイギリスの悪口を言ったようだが、ここは敢えて聞き返さない。・・・)

ギネスは飲んだか?

毎日のように飲んでいる。ビールならKILKENNYもうまい。あるパブで、キルケニーはないが、良く似た味と勧められたBASSというのは、イマイチうまくない・・・。ギネスは、瓶なら日本でも飲める。

そうか・・・

ゴールウェイで、Monk Fishのシチューというのを食べた。アンコウなど食うのは日本人くらいだと思っていたが、アイルランドでも食われているので感心した。日本人は、アイルランドを身近に感じている部分もある。(と、ここで、日本語でダニーボーイを歌う。)

オー、ダニーボーイ!愛しきわが子よ。
いずこに今日は眠る。
・・・・・

オ〜!!グレート!!(と驚いていたく喜ばれる)
どこでそんな歌を覚えたのか?

学校だ。日本の音楽の授業ではアイルランドの古い歌が教えられる。たいていの日本人はこの歌をうたう事ができる。

ふ〜〜ん!とまた感心されて、今度はジイさんが歌い出したのがこの歌。

Cockles and Mussels ( or Molly Malone )

In Dublin's Fair City
Where the girls are so pretty
I first set my eyes on sweet Molly Malone
As she wheel'd her wheel barrow
Through streets broad and narrow
Crying cockles and mussels alive, alive o!

Chorus
Alive, alive o!, alive, alive o!
Crying cockles and mussels alive, alive o!

She was a fishmonger
But sure 'twas no wonder
For so were her father and mother before
And they each wheel'd their barrow
Through streets broad and narrow
Crying cockles and mussels alive, alive o!

Chorus

She died of a fever
And no one could save her
And that was the end of sweet Molly Malone
But her ghost wheels her barrow
Through streets broad and narrow
Crying cockles and mussels alive, alive o!

Chorus


そう言えば、観光バスの運転手もこの歌をうたっていた(運転しながら!)。で、ダブリンに行けば、ダニーボーイを日本語で歌い、このマリーマローを一緒に歌えれば、間違いなくアイルランドの人と仲よくなれると思います。

2005年5月7日

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